待ち人cause

 この空の続くどこかに、そこはある。

 そこは街の路地裏で、柱時計みたいに背の高いビルの間に挟まれて、鳥小屋みたいに肩をすぼめて、今にも潰されてしまいそうに立っている。

 その年老いた外観からは想像もできないが、この小屋には、エネルギーが満ち溢れている。

 アンティーク調の木彫りの装飾が施された戸や、屋根や、壁が、その小屋のすべて。

 小屋のまわりには、ツルニチニチソウの葉が生い茂っていて、路地からちょっと内側に入ったその小屋へといざなうように可愛らしい小道をつくっている。

 窓ガラスには、赤や黄色や青などといった色とりどりのガラスが使われていて、白い縁取りの模様がついている。

 ドアの前は石段が一つ高くなっており、下から上まで丁寧に施された木彫りの装飾が迎えてくれる。そしてそのドアには、


〈喫茶 スーヴニール〉


 と書かれたちいさな看板が下げられていて、来るものを出迎えてくれる。



 チリン。


 ドアについた小さなベルが鳴る。

 老紳士がかつかつと履き慣れた革靴を鳴らし、金属の縁のぶ厚い眼鏡からこの喫茶店を眺めている。

 内装もやはりやや古ぼけた印象はありつつも、どこか懐かしく、温かかった。

 窓は二つ、それぞれに両開きのレースのカーテンがリボンで縛られた状態になっている。

 ちょうど真ん中に屋根から吊り下げられたガラスの照明がオレンジ色に照っている。


「いらっしゃいませ。」


 カウンターのマスターが会釈する。


「ああ。どうも。」


 紳士は親しげに返し、それから


「いつものを頼むよ。」


 と注文した。


「かしこまりました。」


 とだけ言うと、彼は慣れた手つきで支度を始める。


「随分経ったなあ。」

「今日も、お待ち合わせでございますか。」

「あ、ああ。はは。なあに。ただの厄介者だよ。」

「ご謙遜を。」

「いえいえ。どうもこうしないと気が済まない質でして。」

「よく解ります。」

「君も経験が?」

「もちろん。誰もが一度や二度は、経験があるはずですよ。」

「…そうかも知れんな。」

「しかし、僭越ながら申し上げますと、見たところあなたもかなりのお歳を召されている様に見える。もうそろそろお辞めになった方がよろしいのでは。」

「はは。全く同じことを今朝妻にも言われたよ。ただね、私は言ってやったよ。私は死ぬまでこれを続けるつもりだぞ、とね。」

「奥様はなんと。」

「呆れてものも言えん、といった顔さ。」

「奥様に同情します。」


 そういうと彼はまた作業に入っていった。老紳士は変わらずそこに立ち続け、ただぼうっと見える景色を眺めていた。


「お待たせしました。」

「おお。すまないね。」

「あ、早かったですか。」

「いや。ちょうどいい。頂こう。」


 テーブルは丸テーブルが一つだけ鎮座していて、レースのクロスがひいてある。

 椅子は背もたれ付きのものがその両脇に二つ用意してあって、マスターはドアがよく見える位置に椅子を移動させ、客人をそこに座らせた。

 白い陶器のコーヒーカップから立ちのぼる芳ばしい香りが鼻をくすぐる。


「ご注文の品、お揃いでしょうか。」

「ああ。完璧だ。」

「ではごゆっくり、お待ちくださいませ。」

「いや待ちたまえ。今何時だ。」

「午後2時を少し過ぎたところでございます。」

「そうか…」


 老体は少しうなだれて、ため息を一つ吐くと


「もう来ない。」


 とだけ言った。


「なぜそう思うのですか。」

「約束は2時のはずなんだ。けれどもあの扉は開かない。もう今日は来ないんだろう。」

「そんなことはありませんよ。きっと来ます。少し遅れているだけかも知れないじゃないですか。」

「私にはわかるんだ。あの人は今日は来ない。」

「ではいつなら来るんですか?去年も、その前も、その前の前も同じ事を仰ってましたが。」

「いや、そうじゃない。そうじゃないんだ…」


 なにか言いたげな彼の言葉は、傍にあるカップの中に溶けていった。

 しばらくして、やっと決心がついたようにコーヒーを一口飲むと、言いにくそうにこう紡いだ。


「本当はね、私も判っているんだよ。ここにもうあの人は来ないって。でもね。50年以上も毎年続けていることは、そうなかなか辞められないものでね。ついつい来てしまう。それでもし会えなかったとしても、今も私の脳内に刻まれているあの日あの時の思い出はこうしてここに残っている。それでいいじゃないかと。何度も言い聞かせたよ。」

「ええ。そうでしょうとも。」

「しかしね、やはりね。私はあの人に会いに来ているんだ。会えなければ仕方がない!」

「そうでなければ、毎年、この日、この時間に、ここに来られることもありませんよね。」

「ああ。そうとも。そうともさ!」



 チリン。


 突如としてドアが開く。

 突然の来訪者に二人はハッと顔を上げた。

 ゆっくりと、外界との隔たりをなくしていく外開きのドアが、内へと侵入を許した者は、すっかり腰を丸くして歩くのもおぼつかないくらいの、老婆だった。

 老婆はドアを閉じると、こちらに向き直り、こう告げた。


「待たせてしまったね。」


 待ち人は来た。彼は席を立ち、足取りを散らしながら彼女の元へと寄っていった。

 二人は長いこと話し続けた。当時のこと。二人だけしか知らない話。他愛ない話から懐かしい話まで。なんでも話した。たくさん笑い、同じだけ瞳を潤ませた。その二人は誰よりも幸せそうに見えた。


「それではまた。」


 長らく話した後、二人の幸福は静かにそう告げた。


「ええ。また。」


 黙って見守っていたマスターも、気さくに返した。

 その背中たちを見送ったあと、彼は店の後片付けを始めた。

 そして、満足げにこう呟いた。


「お次は、どこへ行きましょうか。」



オクトーブの詩に想いを寄せて


(了)